みたび餘部橋梁へ…?
1986年9月25日(木曜日)
国鉄最後のダイヤ改正まで37日
機材と荷物を持ち餘部駅への坂道を上り下りするのが嫌で、鳥取駅近くのBHから列車に揺られ、この日も余部橋梁へと向かいました。午前中の上り普通列車は、浜坂駅で10分を超える停車時間があるので、1時間ちょっとの乗車時間を要しました。

前日と同じ鳥取発上り1番列車に乗る事ができなかった。橋梁近くの民宿に泊まればとちょっぴり後悔。いつもの、また来りゃいいさ!と思い、ひとまず逆光での交換風景を撮り餘部駅へ。

一度は餘部駅に向かったものの、桃観トンネルの坑門が重厚なのに惚れ込み久谷駅にとんぼ返りしました。旧型客車4両に機関車2両の贅沢な編成です。タイトルも国鉄最後のダイヤ改正まで37日 みたび餘部橋梁から久谷駅界隈に変更しなければなりませんなぁ(汗

<525レ DD511174>
米子・倉吉・城崎・宮津線経由城崎・東舞鶴行きと色々ありました。

<あさしお4号 キハ181-24>
この時点で旧型客車が残っていたのは、山陰本線と函館本線そして和田岬線だったと記憶しています。

<526レ DD511107>
新大阪・大阪⇔鳥取・出雲市・益田間を結ぶ急行だいせん。列車によっては、一部区間で快速列車や普通列車として活躍しました。

<722D>
京都⇔米子を結ぶ急行白兎。 列車名の由来は日本神話の『因幡の白兎』(因幡のしろうさぎ)に由来し、『白兎』の音読み『はくと』となっています。このダイヤ改正で、あさしおに統合され一度消え行く列車ですが、1994年12月3日の智頭急行智頭線開業により『はくと』の名称が復活しました。

<806D>
播但線経由で結ぶ急行但馬。この但馬1号は、お隣浜坂駅から普通列車に格下げになるのですが、方向幕の急行が中途半端な位置になっています。利用客の減少によって、1989年には姫路駅-豊岡・鳥取間の運転に短縮され、1996年3月16日のダイヤ改正で消滅しました。

<611D>
1961年10月1日に山陰本線初の特急列車として、キハ80系気動車6連で京都-松江間を福知山線経由で運転を開始した『まつかぜ』。松風吹く日本海沿いのルートにふさわしい名前で登場。山陽本線に比べ近代化が大幅に遅れていた山陰本線。特急の運転開始は画期的で、豊岡と城崎が繰り広げた激しい停車駅の誘致合戦は語り草になっているようです。『まつかぜ』は大人気となり、1964年3月20日には一気に博多まで延長。編成も6連から7連→9連→10連→12連と段階的に増強され、1972年3月15日には13連にまで成長(米子以西は7連)。この時には、1965年11月1日に新設された新大阪~浜田間の『やくも』1往復を加え2往復態勢となっていました。しかし、その後は衰退が始まり、1982年7月1日から京都発着から大阪・新大阪発着への変更、13連から9連に編成短縮。一部キハ181系化といった変化の末、1985年3月14日全列車キハ181系化。運転区間も新大阪・大阪⇔米子間に変更。1986年11月1日のダイヤ改正で消滅。その後、2003年10月1日『スーパーまつかぜ』として、この名が復活。

<5D まつかぜ1号>
鳥取駅前のBHに泊まりながら、急行砂丘を撮る機会がなく、香住から乗車した『まつかぜ』の停車時間を利用して、最初で最後の逆光での撮影となってしまいました。


『まつかぜ』の終着駅米子に到着しました。
もう少し西へと向かいます。
---------------------------------足跡----------------------------------
鳥取6:18(524レ)⇒餘部7:31/7:40(171D)⇒久谷7:46/14:22(726レ)⇒香住14:41/15:23(7D)⇒米子17:37/17:41(721レ)⇒宍道18:49

にほんブログ村
お帰りの際、愛のワンクリックをしていただくと、
明日への励みになります。ご協力をお願いします。

にほんブログ村
懐かしさや・へぇ~と思えましたら、
ワンクリックのご協力をお願いします。
国鉄最後のダイヤ改正まで37日
機材と荷物を持ち餘部駅への坂道を上り下りするのが嫌で、鳥取駅近くのBHから列車に揺られ、この日も余部橋梁へと向かいました。午前中の上り普通列車は、浜坂駅で10分を超える停車時間があるので、1時間ちょっとの乗車時間を要しました。

前日と同じ鳥取発上り1番列車に乗る事ができなかった。橋梁近くの民宿に泊まればとちょっぴり後悔。いつもの、また来りゃいいさ!と思い、ひとまず逆光での交換風景を撮り餘部駅へ。

一度は餘部駅に向かったものの、桃観トンネルの坑門が重厚なのに惚れ込み久谷駅にとんぼ返りしました。旧型客車4両に機関車2両の贅沢な編成です。タイトルも国鉄最後のダイヤ改正まで37日 みたび餘部橋梁から久谷駅界隈に変更しなければなりませんなぁ(汗

<525レ DD511174>
米子・倉吉・城崎・宮津線経由城崎・東舞鶴行きと色々ありました。

<あさしお4号 キハ181-24>
この時点で旧型客車が残っていたのは、山陰本線と函館本線そして和田岬線だったと記憶しています。

<526レ DD511107>
新大阪・大阪⇔鳥取・出雲市・益田間を結ぶ急行だいせん。列車によっては、一部区間で快速列車や普通列車として活躍しました。

<722D>
京都⇔米子を結ぶ急行白兎。 列車名の由来は日本神話の『因幡の白兎』(因幡のしろうさぎ)に由来し、『白兎』の音読み『はくと』となっています。このダイヤ改正で、あさしおに統合され一度消え行く列車ですが、1994年12月3日の智頭急行智頭線開業により『はくと』の名称が復活しました。

<806D>
播但線経由で結ぶ急行但馬。この但馬1号は、お隣浜坂駅から普通列車に格下げになるのですが、方向幕の急行が中途半端な位置になっています。利用客の減少によって、1989年には姫路駅-豊岡・鳥取間の運転に短縮され、1996年3月16日のダイヤ改正で消滅しました。

<611D>
1961年10月1日に山陰本線初の特急列車として、キハ80系気動車6連で京都-松江間を福知山線経由で運転を開始した『まつかぜ』。松風吹く日本海沿いのルートにふさわしい名前で登場。山陽本線に比べ近代化が大幅に遅れていた山陰本線。特急の運転開始は画期的で、豊岡と城崎が繰り広げた激しい停車駅の誘致合戦は語り草になっているようです。『まつかぜ』は大人気となり、1964年3月20日には一気に博多まで延長。編成も6連から7連→9連→10連→12連と段階的に増強され、1972年3月15日には13連にまで成長(米子以西は7連)。この時には、1965年11月1日に新設された新大阪~浜田間の『やくも』1往復を加え2往復態勢となっていました。しかし、その後は衰退が始まり、1982年7月1日から京都発着から大阪・新大阪発着への変更、13連から9連に編成短縮。一部キハ181系化といった変化の末、1985年3月14日全列車キハ181系化。運転区間も新大阪・大阪⇔米子間に変更。1986年11月1日のダイヤ改正で消滅。その後、2003年10月1日『スーパーまつかぜ』として、この名が復活。

<5D まつかぜ1号>
鳥取駅前のBHに泊まりながら、急行砂丘を撮る機会がなく、香住から乗車した『まつかぜ』の停車時間を利用して、最初で最後の逆光での撮影となってしまいました。


『まつかぜ』の終着駅米子に到着しました。
もう少し西へと向かいます。
---------------------------------足跡----------------------------------
鳥取6:18(524レ)⇒餘部7:31/7:40(171D)⇒久谷7:46/14:22(726レ)⇒香住14:41/15:23(7D)⇒米子17:37/17:41(721レ)⇒宍道18:49
前日まで | 本日乗車分 | 積算距離 | |
民営鉄道 | 90.5km | 0km | 90.5km |
国鉄線 | 1977.5km | 248.4km | 2225.9km |
乗車距離 | 2068km | 248.4km | 2316.4.km |

にほんブログ村
お帰りの際、愛のワンクリックをしていただくと、
明日への励みになります。ご協力をお願いします。

にほんブログ村
懐かしさや・へぇ~と思えましたら、
ワンクリックのご協力をお願いします。
- 関連記事
-
- 山陰本線を西へ
- 新線切り替えの電化区間へ
- 延命之水を求めて
- みたび餘部橋梁へ…?
- 再び余部橋梁へ 旧型客車編
- 再び余部橋梁へ
- やまぐち号初乗車
