ゴライアスクレーンのあった港町函館
午後になると冷たい空気が流れ込み雷鳴が聞こえてきました。
昨日のような雷雨とはなりませんでしたが3日連続の”らいさま”(雷様)
我が故郷では雷を雷様(らいさま)という愛称で呼んでいましたね。
そう言えばスタバの”栃木 らいさま パチパチ チョコレート フラペチーノ”
こんどの休みに足利まで足を延ばして食べてこようかな!?
本日もお越しいただきありがとうございます。
函館の街のあちこちから見えたゴライアスクレーン。
函館どつくに設置されていた2基の大型クレーン。
当時(1975年) では最大の30万トンタンカー建造用として作られまたが、
すぐに造船不況が訪れ4年後に売却されました。
その後2009年6月には解体の運命になったようです。
その向こうには青森へ向かう青函連絡船羊蹄丸が湾内を航行し
有川埠頭には勇退した青函連絡船2隻と旧客とキハの姿がありました。
撮影は33年前の1988年9月16日のネガからのお届出した。

ご覧いただきありがとうございました。
撮影や更新リの励みになります。
お帰りの際には、ポッチっと「愛の一押し」お願い致します。

またのお越しを、お待ちしております。
昨日のような雷雨とはなりませんでしたが3日連続の”らいさま”(雷様)
我が故郷では雷を雷様(らいさま)という愛称で呼んでいましたね。
そう言えばスタバの”栃木 らいさま パチパチ チョコレート フラペチーノ”
こんどの休みに足利まで足を延ばして食べてこようかな!?
本日もお越しいただきありがとうございます。
函館の街のあちこちから見えたゴライアスクレーン。
函館どつくに設置されていた2基の大型クレーン。
当時(1975年) では最大の30万トンタンカー建造用として作られまたが、
すぐに造船不況が訪れ4年後に売却されました。
その後2009年6月には解体の運命になったようです。
その向こうには青森へ向かう青函連絡船羊蹄丸が湾内を航行し
有川埠頭には勇退した青函連絡船2隻と旧客とキハの姿がありました。
撮影は33年前の1988年9月16日のネガからのお届出した。

ご覧いただきありがとうございました。
撮影や更新リの励みになります。
お帰りの際には、ポッチっと「愛の一押し」お願い致します。

またのお越しを、お待ちしております。
- 関連記事
-
- 函館どつく 二機のゴライアスクレーン
- 特急の接続を待たずに出港する羊蹄丸
- 加速線と下り勾配を往くDD51貨物
- ゴライアスクレーンのあった港町函館
- 蝦夷駒ケ岳バックのスキー臨
- 茶内駅 ふれ茶内(ちゃう)館
- 茶内駅で流氷物語号と出会う
